高市政権の外国人政策を保守の立場から考える
2026年6月時点で確認できる政府資料を見る限り、現在の高市政権の外国人政策は、従来の「外国人材の受入れ・共生」路線を完全に止めるものではない。むしろ、外国人の受入れを前提にしつつ、そこに「秩序」という言葉を加え、入管、社会保障、医療、土地取得、日本語教育などをまとめて管理しようとする方向にある。
政府は2025年11月4日、高市総理の下で「外国人の受入れ・秩序ある共生社会実現に関する関係閣僚会議」を開いた。高市総理はそこで、人口減少に伴う人手不足の中で外国人材を必要とする分野があることを認める一方、一部外国人による違法行為やルール逸脱に国民が不安や不公平を感じているとも述べた。そのうえで、排外主義とは一線を画しつつ、ルール違反には毅然と対応するとしている。
一見すると、これは保守派の不満を意識した現実路線に見える。だが、問題はその先にある。政府は2026年1月23日、「外国人の受入れ・秩序ある共生のための総合的対応策」を決定し、特定技能制度と育成就労制度について、特定産業分野を19分野、育成就労産業分野を17分野とする方針を示した。さらに、令和10年度末までの受入見込み数を設定し、それを両制度の受入れ条件として運用するとしている。
つまり、現在の政権は「外国人を減らす」方向ではなく、「受け入れるが、管理を強める」方向に進んでいる。ここを見誤ってはならない。
外国人政策の中心は、すでに「一時的な労働力」ではない
かつて政府は、外国人労働者について「移民政策ではない」と説明してきた。しかし、現実には、在留外国人は増加を続けている。出入国在留管理庁によれば、令和7年6月末の在留外国人数は395万6,619人で、前年末より18万7,642人、率にして5.0%増加し、過去最高を更新した。
400万人に近い外国人が国内に在留している以上、これはもはや短期の人手不足対策だけでは説明できない。教育、医療、住宅、福祉、地域行政、治安、土地取得、学校現場、社会保険など、日本社会の広い範囲に影響を与える構造的な問題である。
政府資料でも、その認識は明確に出ている。総合的対応策は、外国人の増加により、これまで多数の外国人が在留することを前提としていなかった制度に国民の関心が高まり、一部外国人によるルール逸脱や制度の不適正利用に対して、不安や不公平感が生じていると書いている。
この認識そのものは正しい。問題は、そこから導かれる政策の重点である。政府は「秩序」を掲げながらも、外国人の日本社会への適応を支援する政策も同時に拡充している。つまり、ブレーキを踏むように見せながら、アクセルも踏んでいる。
子どもへの日本語教育は、誰のための政策なのか
今回、特に注目すべきは、外国人の子どもに対する日本語教育である。政府の総合的対応策では、公立学校における日本語指導が必要な児童生徒は約6.9万人に達し、約10年間で1.9倍に増えたとされている。また、学校生活に必要な日本語を身に付けるための特別な指導を受けていない児童生徒も約1割いるとされる。
この数字を見ると、現場の教師や自治体が困っていることは事実である。日本語が分からない子どもが学校に入れば、本人も苦しむし、授業運営も難しくなる。放置すれば、学力不振、不登校、地域からの孤立につながる可能性もある。その意味で、日本語教育を整備する必要性は理解できる。
しかし、保守の立場から見るなら、ここで問うべきことは一つである。
なぜ、その負担を日本国民の税金で当然のように引き受けるのか。
政府は、令和8年度には日本語指導が必要な児童生徒18人に対して1人の教員が基礎定数として措置されるよう、教員定数の改善を進めるとしている。また、多言語翻訳システム、遠隔教育、地方公共団体の支援体制整備、NPO・企業・大学との連携も促進するとしている。
これは教育政策として見れば、相当な支援策である。だが、その一方で、日本人の子どもたちはどうか。地方では学校統廃合が進み、教員不足も続き、家庭の経済状況による教育格差も広がっている。発達特性を持つ子ども、不登校の子ども、貧困家庭の子ども、地方で進学機会に恵まれない子どもたちへの支援は、まだ十分とは言えない。
その状況で、外国人の受入れ拡大によって生じた教育負担を、公教育がさらに抱え込む。これは、日本人納税者から見れば、納得しにくい政策である。
もちろん、国内にいる子どもを教育から排除すべきではない。義務教育の現場で、子どもを放置すれば、将来の社会不安にもなる。だが、それはあくまで「既に発生している問題への対処」であって、「外国人受入れをさらに進める理由」にはならない。
本来であれば、外国人の子どもに日本語教育が必要になるなら、その費用は、外国人を雇用して利益を得る企業、受入れ機関、場合によっては送り出し国、そして本人世帯により重く負担させる設計にすべきである。日本人の一般納税者に広く薄く負担させるのは、実務上は簡単でも、政治哲学としては不健全である。
「外国人に日本語を教える」前に、日本人の教育を立て直すべき
日本語教育は、日本社会に入るための最低限の条件である。日本で暮らすなら、日本語を学ぶべきだという考え方自体は、保守の立場からも自然である。むしろ、多文化共生の名の下に、日本側が相手の言語に合わせ続けるよりは、日本語習得を求める方がまだ健全である。
しかし、政策の順番が問題である。
日本人の子どもの国語力、歴史教育、公民教育、道徳教育、郷土教育、職業教育は十分なのか。日本人自身が自国の歴史、制度、文化、国柄を十分に学べていない中で、外国人向けの日本語教育や共生教育を拡充していくことは、国家としての優先順位を誤っている。
国家の教育予算は、まず国民を育てるために使われるべきである。外国人への教育支援は、あくまで例外的・補完的なものでなければならない。日本人の教育が弱っているのに、外国人の社会適応支援だけが制度化されていくなら、それは国民国家の土台を薄くする。
保守政治に求められるのは、外国人への敵意ではない。国民への責任である。
高市政権の姿勢は「保守的管理付き受入れ」である
高市政権の外国人政策を一言で表すなら、「保守的管理付き受入れ」である。
一方では、入管管理、在留資格審査、永住者の在り方、帰化の厳格化、不法滞在者対策、外国人犯罪、外免切替、医療費未払い、国保、生活保護、土地取得などを政策課題として並べている。内閣官房にも「外国人との秩序ある共生社会推進室」が置かれ、外国人施策の司令塔として総合推進する体制が作られている。
この点は、従来よりは明らかに保守層の問題意識に近い。外国人による制度利用やルール違反に対して、政府が何らかの管理強化を打ち出したことは評価できる。
だが、他方では、政府は外国人材の受入れそのものを前提としている。育成就労制度の開始に向け、現地の日本語教師育成、日本語教育カリキュラム、教材開発支援、海外での日本語教育活動支援も進めるとしている。
国内に入ってからも、大人の労働者向けには、日本の職場でのコミュニケーション能力やビジネスマナーを学ぶ100時間の研修、就労・定着支援が実施されている。さらに、育成就労制度では、受入れ機関や監理支援機関による日本語講習が円滑に行われるよう、モデルカリキュラムの開発・普及も進めるとしている。
ここにあるのは、外国人受入れを止める政治ではない。外国人を受け入れたうえで、日本社会に適応させ、制度の中に組み込む政治である。
「秩序ある共生」は、国民側の負担を見えにくくする言葉でもある
「秩序ある共生」という言葉は、一見すると妥当に聞こえる。無秩序な受入れではなく、ルールを守らせる。違法行為には厳しく対応する。外国人にも責任ある行動を求める。この方向性自体は否定しにくい。
しかし、この言葉には危うさもある。
なぜなら、「秩序ある」と付けることで、受入れそのものの是非が問われにくくなるからである。国民が本当に聞きたいのは、「どう管理するか」だけではない。「そもそも、どこまで受け入れるのか」「誰が費用を負担するのか」「日本人の賃金や教育や住宅にどのような影響が出るのか」である。
政府の対応策には、国民の不安や不公平感への対処が書かれている。だが、その不安の根本には、外国人が増えること自体への違和感がある。地域の学校、病院、住宅、職場、自治体窓口が変わっていく。その変化に対して、国民が十分に同意したとは言い難い。
にもかかわらず、政策は「人手不足だから必要」「共生のために支援が必要」という流れで進む。そこに、国民的な熟議は十分に見えない。
企業の利益と国民の負担を分けて考えるべき
外国人材受入れで最も利益を得るのは、労働力を確保したい企業である。人手不足の業種にとって、外国人労働者は現実的な選択肢になっている。特定技能や育成就労は、その需要に応える制度である。
しかし、企業が労働力を得た結果として、学校の日本語指導、自治体窓口の多言語対応、医療通訳、生活相談、地域トラブル対応、社会保障制度の管理、治安対策が必要になるなら、その費用を社会全体が負うことになる。
これは、利益は企業に、負担は国民に回る構図である。
保守の立場からは、この構図を厳しく問わなければならない。外国人を雇う企業には、通常の雇用責任を超えて、教育、住居、生活指導、地域適応、家族帯同時の追加費用について、より明確な負担を求めるべきである。受入れ機関が利益を得るなら、受入れに伴う社会的費用も負うべきである。
「共生」の名で税金を使う前に、「受益者負担」を徹底する。これが実務上も現実的な線である。
保守が求めるべき外国人政策
保守の立場から見た場合、今後求めるべき政策は明確である。
第一に、外国人受入れの総量規制を設けることである。分野別の受入見込み数だけでなく、地域別、学校別、医療圏別、住宅市場別の受入限界を示す必要がある。国全体で数字を決めても、負担は特定の自治体や学校に偏る。
第二に、外国人に対する支援費用の財源を明確にすることである。日本語教育、生活相談、多言語対応、医療費未払い対策などにどれだけ税金が使われているのかを、国民に分かる形で示すべきである。
第三に、外国人を雇う企業と受入れ機関に、より重い負担を課すことである。人手不足を理由に外国人を受け入れるなら、その結果生じる教育・生活・地域対応の費用も、雇用側が負担するのが筋である。
第四に、日本人の教育と賃金を最優先にすることである。外国人労働者の受入れが、日本人労働者の賃金上昇を妨げていないか。外国人児童生徒への支援が、日本人児童生徒への教育資源を圧迫していないか。政府はこの点を正面から検証すべきである。
第五に、日本語習得と日本社会の規範理解を、支援ではなく義務として位置付けることである。日本に住むなら、日本語を学び、日本の法と慣習を尊重する。それは差別ではなく、国民国家として当然の条件である。
結論:共生より先に、国民への責任を語るべきだ
高市政権の外国人政策は、従来よりも「秩序」を前面に出している。その点では、無制限な多文化共生論よりは現実を見ている。違法行為、制度の不適正利用、土地取得、医療費未払い、在留管理の問題に踏み込もうとしている点は、一定の評価ができる。
しかし、根本では、外国人受入れを続ける方針であることに変わりはない。日本語教育、生活支援、相談体制、学校支援、海外での日本語教育基盤整備まで含め、政府は外国人を日本社会に組み込む制度を拡充している。
保守の立場から見れば、ここにこそ危うさがある。
日本は、まず日本人のための国である。税金は、まず日本国民の安全、教育、生活、雇用、文化の維持に使われるべきである。外国人への支援が必要な場面はあるとしても、それは国民への責任を果たした後の話でなければならない。
「秩序ある共生」という言葉が、国民負担を覆い隠す便利な看板になってはならない。
外国人に日本語を教える前に、日本人の子どもに十分な教育を与える。外国人労働者を受け入れる前に、日本人の賃金を上げる。外国人の生活支援を拡充する前に、日本人が安心して暮らせる地域を守る。
その順番を取り戻すことこそ、今の日本に必要な保守政治である。